安心日和第四番札所 寳琳山 大観寺・トップイメージ
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    • 第七番札所寳光山 玉泉寺
    • 第十番札所岳原山 泉福寺
    • 第二番札所寳閣山 蓮花寺
    • 全体高野長峰霊場会 五胎健全祈願所
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    • 第四番札所寳琳山 大観寺
    • 第六番札所瑞應山 満福寺
    • 第八番札所勅願山 惣福寺
    第四番札所 寳琳山 大観寺
    • 御本尊 … 十一面観音
    • 御誓願 … 無病息災
    • 御真言 … おん  まかきゃろにきゃ  そわか
    • 御詠歌 … 大乗の  祈る力の  大観寺
      御詠歌 … 生石の山里  極楽ぞあり
      当山は高野山系に分脈する長峰山脈の、県立生石高原の山腹に位置します。
      高野山の開基以降高野山の末寺にして、賓林山観蔵寺と名付けられ開山されました。しかし、万寿年間(1204〜1228年)野上八幡宮の造営にあたり神領になり、次いで神野荘に属し、鳥羽院領〔康治2年(1143)〜正治元年(1199)〕になりました。
      のち、約56年程を経て、神野荘が高野山の寺領に復しています。
      室町時代、文明18年(1486)浄土真宗の蓮如上人に住民が帰依していったために当山は荒廃し、無住の狐狸の住み家となりましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が天下を統一し、高野山が寺領政策を強化しはじめた当時、住民は、真言密教に改宗させられました。その頃、御本尊十一面観音像〔吉野朝(14世紀)時代の作〕が修理され、住民の有志から団地が当山に寄進されています。
      明治12年に堂宇が倒壊し、無住と化しましたが、明治39年、隣地で同宗派の光明山大師寺と合併し、今日の寶琳山大観寺と名付けられました。
      本堂は、観蔵寺時代を経て、昭和55年に再建されたものです。
      御本尊、十一面観音は、昔から霊験あらたかに、諸願を成就させています。
      更に、当山には奥の院として、紀伊績嵐土記には『石立不動』と記される、『立岩不動』があります。こちらでは、例年2月28日、諸願の祈祷護摩を焚き、大餅投げを修しています。
    如実知自心  仏法遙かにあらず01
      お経に『如実知自心(にょじつちじしん)』というお言葉があります。悟りを得るというのはどういうことですかという質問に対するお答えです。悟りを得るというのは『真実の我が心を知る』ということで、本来、自分のものであるはずの『心』ですが、なかなか本当の姿は見えません、自分の思いどおりにもならないものです。
    大根屋とカナダライ  仏法遙かにあらず02
      これは東京を江戸と呼んでいた頃のお話です。一人の貧しい大根屋がいました。毎朝、荷車に大根を積んで「だいこ〜ん、だいこ〜ん」と売って歩いておりましたが、なぜか今日は一本も売れません。やがて日も落ち、あたりは暗くなってきました。
      『アー今日は商いにはならんなー。家には女房と二人の子どもが、腹を空かせて待っている。どうしようかな?』そう思いながら「だいこ〜ん」と歩いていますと、立派な門構えのお屋敷の前までやってきました。お屋敷の中から「大根屋」と声をかけてくれました。
      『あーうれしい、このお屋敷なら大根の十本も買ってくれるに違いない』そう思って門の中へ入っていきますと、その屋敷の主人が「その大根はいくらじゃ」と聞きます。「一本十文でお願いいたします」と答えると、主人が「高いな、一本八文にまからんか』と言う。「一本八文で仕入れた大根。なんとか十文でお願いいたします」そう大根屋が言いますと「まからんか、それならいらないよ」と戸を閉めてしまいました。
      『あーこうてくれんか、今日は売れんな』門から出て行こうとしましたら、門の横に大きなアカ(銅)で出来た『カナダライ』が置いてあります。当時高く売れたそうです。悪いこととは思いながら、いけないことだと知りながら、その『カナダライ』を大根の下にそっと隠して門から出て行こうとしましたら、屋敷の中から「大根屋」と主人が出てきました。『アー見つかった』と思い慌てていますと、主人が「さっきは悪かったな、大根を十文で買うから二本置いていけ」と言う。買ってほしいけれども、大根を下ろすとカナダライが見えてしまう。
      「エーこの大根は、二本や三本ではお売りできません」と大根屋が言う、「そうか、では十本買うから置いていけ」と言う。「アッ、忘れておりました。この大根、予約が入っておりまして、そこへ持っていかなければなりませんでした。申し訳ありません」「大根屋、えらくその大根を売るのがイヤそうだが、何ならそのカナダライも一緒に、こうてやろうか」みんなばれています。
      そして主人は「お前の持っている大根をみんな買ってやろう。そのカナダライはお前にあげよう。家に帰ったら、そのカナダライで顔を洗いなさい。その時、顔のあかばっかり落とさずに心の垢も一緒におとしてくれよ。手を洗う度、顔を洗う度、心も一緒に洗ってくれよ」そう言われたという話です。
    心を見つめる  仏法遙かにあらず03
      大根屋にたとえたのは、今日の私たちです。悪いこととは知りながら、いけないことと思いながら、『お腹を空かせた子どものため、生活のため』と、我が心をごまかして、罪を作っているのが私たちです。うれしいといっては笑い、腹が立つといってはわめき、悲しいといっては泣き叫ぶ、感情のおもむくままに走り回っているのではないでしょうか。一度立ち止まって、一分でも五分でも自分の心を見つめて下さい。そこには仏様が居られます。