安心日和第七番札所 寳光山 玉泉寺・トップイメージ
    • 第三番札所瑠璃光山 醫王寺
    • 第五番札所龍光山 釜滝薬師 金剛寺
    • 第七番札所寳光山 玉泉寺
    • 第十番札所岳原山 泉福寺
    • 第二番札所寳閣山 蓮花寺
    • 全体高野長峰霊場会 五胎健全祈願所
    • 第九番札所天徳山 大日寺
    • 第一番札所幡川山 薬師院 禅林寺
    • 第四番札所寳琳山 大観寺
    • 第六番札所瑞應山 満福寺
    • 第八番札所勅願山 惣福寺
    第七番札所 寳光山 玉泉寺
    • 御本尊 … 薬師如来
    • 御誓願 … 子安・安産
    • 御真言 … おん  ころころ  せんだり  そわか
    • 御詠歌 … 阿りがたや  子安の薬師の  ごりやくお
      御詠歌 … うけ志うぶ子の  おいたちぞよき
      当山は明恵上人の開基とされます。上人は760有余年前、熊野詣の折、日高有田の里を経て高野山への巡錫の途中に当地に立ち寄られ、上人守護自念仏である薬師如来を草庵に安置なさいました。以降、諸人の無病息災・諸願成就の寺とされ、諸人の厚き信仰を集めました。
      当寺に伝わる話に、このようなものがあります。

      ──流産をした女性が、鰐口(仏堂の前に下げられた鐘)の布の緒にすがり、薬師如来に一心にご加護を念じたところ、緒が切れ落ち腹にからんだ。その緒が薬師の恵と覚り、持ち帰り腹帯とすると、安産となり、玉のような子を授かった。また、乳に恵まれ、その子はすくすくと成長した。このことが村人から諸人に伝わり、薬師様の鰐口の布緒をお受けになる人がこぞって参拝するようになった──。

      以来、当寺は、『阿りがたや子安の薬師のごりやくおうけ志うぶ子のおいたちぞよき』と謳われ、子安安産のご利益がある寺、由緒ある名刹として今日に至っています。
      本堂内陣には子安観音、皮膚病平癒の毘沙門天、諸願成就の不動明王、延命地蔵尊等を安置しております。また、安産御祈願の方に安産祈祷の腹帯をお授けしております。
    意味と本質  知るといういこと01
      もう2年程前になりますか、テレビドラマの1シーンがきっかけとなってネットで1つの論争がおこるといったことがありました。何かと言いますと主人公が墓参りの際、『線香の火に息を吹きかける』といったシーンがあり、視聴者から問題視されてしまったのが始まりです。
      『線香の火は息を吹きかけて消してはならない』が事の発端なのですが、やがて『火をいこすためであり、消しているのではないから大丈夫』といった流れになり、問題はないという結論が大勢を占めかけたりしておりました。
      仏教では、人間の口は悪業を積みやすく穢れやすいと考えられているため、線香の火を消すときは手であおいで消すのがマナーとされております。我々もお供え物などを運ぶ時は、口より上にて捧げ持てと教わりもしました。
      昨年、高野山は開創1200年でしてTVなんかでもちょくちょく放映されました映像の一つに、奥の院にて弘法大師のもとに毎日2度食事が届けられる、生身供(しょうじんぐ)というものがあり、ご覧になられた方もおられたのでは。その様子を思い出していただければと思うのですが、生身供を運ぶ僧侶は皆、今でいうマスクのようなものをしております。口臭や唾液を不浄と考えるためです。ですので、火を『消す・いこらせる』に関わらず『線香の火に息を吹きかける』事自体がよろしくないのであります。
      この話の恐ろしいと感じるところは、『火をいこすために息を吹きかけるのは悪くない』という理論です。『消してはならない』という言葉が一人歩きすることによって、消していないから良いという理屈がまかりとおる訳です。『息を吹きかける』行為がタブーであり、それには意味があり、そこに本質があるのです。
    本来の目的を知る  知るといういこと02
      さらにもう一つ、『消してはならない』について。
      通夜の時、線香の火を『絶やしてはならない』とよく言われます。理由にも諸説ありますが、線香は精進を表します。線香の火が燃えて進む際、急に速く燃える・次第にゆっくりとなるとか、途中で消えることなどはまずないです。同じ速さで最後まで燃え尽きます。この火が燃えて進む様を、故人様が仏様のもとに参る姿であると喩えるのです。『慌てずとも休まず最後まで(仏様のもとに)進んでください』と願い、お供えいただくのが通夜の線香です。そう考えますと線香の火が絶えると言うことは、精進を絶つすなわち、故人様が仏様のもとに参るのをやめてしまうとなるので具合が悪くなるのです。そこで近年、巻線香なるものが重宝されるのです。火を消さずにおくにはうってつけの優れもので、便利・世話がないとなるのです。
      昔は寝ずの番といい、故人様を偲びながら家族が傍らで代わる代わる線香が消えないように見張りながら、最後の夜を共に過ごされました。
      本質・目的は、代わる代わる線香を『お供えし続けること』です。その結果として、寝ずに・絶やさずとなるのであり、『寝てはならない・消してはならない』などの言葉の一人歩きに惑わされてはならないのです。
      『消してはならない』となると巻線香で充分なのですが、より多くの方がより多くの回数、すなわち『みんなで何度も何度も線香をお供えする』ことが供養であり、本来の目的であります。一度火をつければ一晩過ごせる、また曲がりくねった長い道でもある巻線香は適さないとなります。故人様が仏様のもとに参る道ならば、まっすぐ短いにこしたことはないですので。
      近年は、斎場・葬儀社にての通夜・葬儀が増え、火災予防の上でもより安全な巻線香・カップローソク、場所によっては電気の線香やローソクなど用いられたりし、火を絶やさずにという風習も廃れつつある現実もあります。
      がしかし、本来の意味を忘れてはなりません。やがて、誰も知らないとなっては何をしても許されるとなってしまい元も子もなくなってしまいます。
      ですので、また我々も皆が知っておくべきことを伝えねばなりません。
    知るということ  知るといういこと03
      近年、仏事は本来の意味を忘れ去られ、時にあってはならないことすら行われてきたりもしております。今時は・世話がない・みんながそうしてるといった理由で。たった一つです、考えてみてください。それらが本当に仏様・先祖様・故人様にとって良いことであるのかと。知らず知らずのうちに仏様・先祖様・故人様を粗末にされてませんか?知らなければそれさえ気付かないのです。
      知らば知るほど得をするなんていいます。例えば買い物するにしても、聞いたり調べたりして安く買い物ができ得をしたり、知らずに買ってしまい損をしたなんてことは往々にしてあります。知らずに損をしてませんか?知ることは大切です。
      仏教では、知らず知らずに犯す罪などを業といいます。自業自得の業です。また良い行いを積み重ねることを徳を積むといいます。業を積むのか徳を積むのかは良し悪しを知ることに起因します。皆さん知ろうとしてください。知ってください。仏様等にとって良いこととは何かを。そして仏様等対し悪業を減らし善行を積み重ねてください。それが仏様等のためでもあり、かつ自身が徳を積むことになり、やがて我々は仏と成りうるのです。